2008/04
科学技術で産業育成 島津斉彬(2)君川 治


尚古集成館

反射炉跡に復元された150ポンド砲


 勝海舟は幕府・水戸藩や薩摩藩、佐賀藩の蒸気船建造に対し、時間と費用ばかりかけるより購入すべしと唱え、薩摩・佐賀とも研究開発をストップさせてしまった。科学技術育成の悪しき実例でもある。
 8月の台風の通過した後の暑い日、鹿児島を訪ねた。鹿児島では旧藩主島津家が経営する島津興業のもとで観光事業、運送事業、建設業など幅広く事業展開しており、社長は島津修久氏(32代)だ。九州新幹線鹿児島中央駅から市内循環バスに乗ると錦江湾にある仙巌園へ連れて行ってくれる。
 その磯庭園仙巌園の脇に尚古集成館という歴史資料館がある。建物は斉彬が集成館事業として始めた機械工場で、1865年に建設されたものである。建物内部にはその昔工場として使用されたクレーンの梁が残っている。(斉彬建設の工場は1863年の薩英戦争で焼失し、久光により再建されたもの)
 尚古集成館では集成館事業について
 ――「時の薩摩藩主であった島津斉彬は、アジアに進出して植民地化を進める西欧諸国の動きにいち早く対応するために、製鉄、造船、紡績等の産業をおこし、写真、電信、ガス灯の実験、ガラス、陶器の製造など、日本の近代化をリードする工業生産拠点をつくり上げました。それが集成館です」――r
と説明している。集成館では学芸員の人達が斉彬の事業推進を支えた蘭学者や技術者について調査研究しており、疑問に答えてくれた。
 集成館事業に協力した蘭学者は津山藩の宇田川榕菴(化学者)、箕作阮甫(幕府天文方)、大阪の緒方洪庵(幕府西洋医学所)、三田藩の川本幸民(物理学者・化学者)、佐賀藩の伊東玄朴(幕府奥医師)、掛川出身でシーボルトに学んだ戸塚静海(幕府奥医師)、東北水沢藩出身の高野長英など錚々たるメンバーである。蘭学者たちは江戸住まいであり出身藩への帰属意識は半ばで、独立して医業を開設し、或いは幕府の天文方や奥医師を勤めていた。
 島津斉彬はこれ等蘭学者に多くの蘭書の翻訳を依頼し、更には科学や技術の実験まで依頼していた。例えば電信事業は緒方洪庵、川本幸民、杉田成卿らに電信機に関する蘭書を翻訳させ、家臣の技術者に製造させていた。蒸気機関については箕作阮甫に専門書を翻訳させて「水蒸船説略」と言う翻訳書を作り、蒸気機関を完成させた。戸塚静海と川本幸民はその後薩摩藩医として御召抱えとなっている。
 薩摩藩にも八木元悦、石河確太郎、松木弘安、中原猶介、竹下清右衛門らの蘭学者が活躍したと説明されている。松木弘安は後の寺島宗則であり明治の外交官として活躍しているが、そのほかの人達はどうしてしまったのだろうか。これら蘭学者に指導された多くの技術者たちはどうしたのか疑問が残る。
 斉彬が若くして亡くなり、島津久光の息子の忠義が29代藩主となるが、実質は久光が薩摩藩の統領であり尊皇攘夷、薩英戦争に突っ込み斉彬の集成館事業は断絶する。
 薩英戦争敗戦により西洋の技術を改めて認識しなおした薩摩藩は、長崎のグラバーの手引きで英国に15人の若者を密航留学させ、集成館事業を再構築するが、この時にはイギリスやオランダから機械類を購入し、技術者を招聘して事業推進している。
 この技術導入の方法により自前の蘭学者・技術者が途絶えてしまったのではないかと疑問が残るが、これはこれからの研究課題である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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